モモ

作品について

原題:Momo

作者: Michael Andreas Helmuth Ende

出版年:1973年

ジャンル: 児童文学

モモという少女が、人々が貧しいながらも平穏に暮らしている、とある街に現れた時間泥棒から大切なものを取り戻すお話。

主な登場人物

モモ 

どこからともなくやって来た、ぶかぶかの上着にもじゃもじゃ頭の小さな女の子。円形劇場に住んでいる。人の話に耳を傾けることが得意。

マイスター・ホラ 

時間を司る、年齢不詳の不思議な人物。

カシオペイア

マイスター・ホラの亀。未来を予見できる。

灰色の男たち

人間から時間を盗む泥棒たち。

ベッポ

モモの親友の一人で道路掃除夫。じっくり考えてから発言する。

ジジ

モモの親友。観光ガイドなど様々な仕事をしている。お調子者で物語を話して聞かせることが好き。

ネタバレ感想

—–ネタバレを含みます—–      

 

 

時間というものは、時計やカレンダーで測れるもののことではない—誰とどのように、何を感じながら過ごすのか、ということであることをこの作品は教えてくれる。作中に出てくる、時間を倹約しながら時間を奪われ、ますます「時間がない」と追い詰められていく人たちは私たちそのものだ。それは、楽しいこと、満足できることに時間を費やすのではなく、「利益があるか」ということだけに目を向けているために起こっている。

ジジは、物語を話す楽しさよりもそれがもたらす裕福さを優先させてしまったがために、空っぽになってしまった。そしてその裕福さを失ってしまったら本当に何もなくなってしまうのではないかと恐れ、そこにしがみつくしかない状態になってしまった。このような人は世の中にたくさんいるだろう。心から楽しめることがない、だから裕福になること、裕福さを維持することに必死になる。ベッポもニノも、「早く早く」という強迫観念に圧されて、モモに気付くことができなかったり、ゆっくりのんびり話をすることができなくなった。ニノのファストフード店での客のせっかちさは、現実世界での光景そのものだ。

時間とは人の心そのもので、その心が失われてしまうと時間も無いも同然となってしまう。「時間がない」と繰り返し口にする私たちは、実際に足りていないのは時間ではなく、いろいろな物事や人の声に耳を傾け、喜怒哀楽を感じられる心の豊かさなのかもしれない。「時間が無い」からゆとりが無い、ゆとりが無いからますます時間を見えない何者かに奪われるという悪循環。しかし心の豊かさと時間は切り離せないものだから、「時間が無い」とイライラすることがあるなら、まずは自分自身の時間を金銭的な利益などではなく自分の心を満たすことに使っているのか、ということを振り返ってみるべきなのかもしれない。また、主体的である、ということも重要だろう。何かに追い立てられて「あれをしなければならない」「これをしなければならない」と思いながら時間を費やすのと、「あれをしたい」「これをしたい」という気持ちで費やすのとでは、生きた時間かどうかが変わってくるのではないだろうか。

モモは、自分の心の中にある時間の音楽に耳を傾ける力を持っている。そしてその「聴く力」は自分以外の人間に対しても発揮し、モモに話をきいてもらった人は自分自身を見つめ直すことができる。モモは人の話をきくことによって自分の時間を人に分け与えているのだ。私たちは、人の話をきいているふりをしながら結局は自分のことばかり気にしていて、そのくせ自分の心の大事な部分には耳を傾けない。一体、何のために時間を使い「忙しい」などと言っているのだろうかと不思議になってくる。

仕事にしてもそうだ。道路掃除夫のベッポは、自分の仕事が意義のあるものだと感じ、丁寧に仕事をしていた。それが「時間を節約しなければ」という働き方になった途端、意義も楽しさも失われ命を削るような働き方になってしまった。仕事を丁寧に、意義や楽しさを見出すような取り組めるゆとりがあれば、現代社会のストレスフルな環境も少しは緩和されるのではないだろうか。