アンナ・カレーニナ

作品について

原題:Анна Каренина

作者:レフ・トルストイ

出版年:1877年

ジャンル: 文学

アンナとヴロンスキーの道ならぬ恋についての物語である。上流階級社会を舞台に展開される。題名にもなっているアンナが主人公だが、リョービンの世界観が軸となっているように感じる。「アンナと彼女を取り巻く出来事」が題材となっていて、リョービンがそれらを通して自分の価値観や道徳観を形成していく話、とも取れるのではないだろうか。

主な登場人物

アンナ

題名にもなっている、本作品の主人公。周囲を惹きつける美貌や愛嬌を持っている。

ヴロンスキー

アンナに一目惚れした上流階級の紳士(?)。

リョービン

田舎で農業経営をしている、実直な男。作者トルストイの分身として描かれているのではないかとされている。

キチイ

リョービンが想いを寄せる上流階級のお嬢様。

カレーニン

アンナの夫で官僚。冷淡な印象を周りに与えている。

オブロンスキー

アンナの兄。陽気で自由主義者。世渡りが上手い。

ドリイ

オブロンスキーの妻でキチイの姉。上流階級だが割と普通な主婦。

対比

アンナとヴロンスキーの恋とリョービンとキチイの物語が対比的に並行して進んでいく。リョービンは田舎に暮らし、田舎を愛しているのに対してアンナは都会で生きてきたという点でも2人が対照的に描かれている。

この2組をつなぐ存在としてオブロンスキー・ドリイ夫妻も重要である。この夫婦が一番世の中にありふれたものではないかと思う。破滅の道を歩むでもなく、清廉潔白でもない。過ちを見て見ぬ振りをしたり、現実的に生きていくことしかできない普通の人たち。オブロンスキーの不貞がバレたことを起点として、アンナ・ヴロンスキーとリョービン・キチイは対極的な結末に向かっていく。

ネタバレ感想

—–ネタバレを含みます—–

 

 

キリスト教

本作品の中でキリスト教は登場人物の行動や価値観を形成する核となっている。リョービンは科学的ではない話については無頓着だったが、自身の家族を築いていく中で信仰心が芽生えた。また、カレーニンも絶望から信仰によって救われている。アンナの辿る結末も、キリスト教的な道徳観を反映している。自殺はキリスト教においては最も罪悪なことであり、アンナの過ちはそれに値する「悪」であるということが示唆されている。

「善」とは何か

リョービンはキリスト教的「善」について考え、「善」とは神の啓示によってもたらされるものだという結論に達している。目に見える不変的な現象に基礎を置くべきであるとリョービンは考えているが、つまりそれは、目に見える道徳、これは善であると自然に人々が受け入れるものという意味かもしれない。

その点において、アンナが夫を裏切りヴロンスキーのもとへ行ったのは「善」を破壊する行為であるだろう。アンナは目に見える「不変の」道徳から目を背け、自分の気持ちに従った。そして最悪の結末を迎えた。ただ、最悪の結末を迎えたことがアンナの人生全てを否定することになるかは疑問だ。「多数が正しいと思うこと」に従うのは社会に属する上で重要なことではあるが、それが唯一絶対の真理であると断定するのは少し危険な気がする。人は「絶対的に正しいこと」を示してもらった方が、曖昧さの中で悩み苦しむより楽ではあるだろう。その基準を「宗教的道徳観」や「多数派」に求めてしまう。しかし実際の世界はそんなに単純で割り切れるようなものではないと思う。

アンナはなぜ幸せになれなかったのか

アンナがカレーニンともヴロンスキーとも幸せになれなかったのは何故だろうか。「善」に背いたからなのであろうか。

ヴロンスキーについては、後半は嫉妬に苦しんでいた。そして彼が自分から離れていってしまう、全てを失ってしまうという恐怖にとらわれていた。それは自分がキチイからヴロンスキーを奪うような形になってしまったこと、そしてあらゆるものを犠牲にして自分の気持ちを優先させたことに対する後ろめたさ故だろうか。カレーニンについてはどうだろう。アンナは彼を冷淡な人間だと感じ、愛していなかった。ヴロンスキーとのことを告白した時も、もしカレーニンがヴロンスキーに決闘を申し込み殺す覚悟があれば、彼を見直し、人間であることを認めたのに、と考えていた。カレーニンがアンナを許そうとした時にも、そのことについてさえ嫌悪感を持っていた。だがアンナはヴロンスキーとの子供よりも、カレーニンとの子供であるセリョージャを愛していた。カレーニンに対するアンナの罪は、どのような経緯であれ、築いてきたものを軽視し向き合おうとしなかったことなのであろうか。

アンナは、ヴロンスキーのこともカレーニンのことも愛しておらず、自分自身のことしか見えなかったのかもしれない。自分の気持ちに従うこと自体が悪だとは思わないし、自己犠牲が美徳だとも思わない。しかし、「自分に何を与えてくれるか」ばかりでは幸せに近づけないのかもしれない。作者は、上流階級の欺瞞・傲慢さによる、キリスト教の掟や神の啓示に背くことの罪悪として描いたかもしれないが、宗教、時代や国を超えて普遍的な問いかけをしてくる作品だと思う。

わたしを離さないで

作品について

原題:Never Let Me Go

作者: Kazuo Ishiguro

出版年: 2005年

ジャンル: SF

舞台はとある全寮制の保護施設「ヘールシャム」で、そこで育った少年少女たちが歩む人生や生い立ちにまつわる真実を「介護人」キャシーの回想を通して明らかにしていく。

主な登場人物

キャシー

本作品の主人公。「ヘールシャム」出身で現在は「介護人」を務めている女性。

トミー

キャシーと同じくヘールシャムで育った癇癪持ちの男の子。

ルース

ヘールシャム出身でキャシーの親友。勝ち気で負けず嫌いなところがある。

エミリ先生

ヘールシャムの主任保護官。

ルーシー先生

ヘールシャムの保護官で、劣等生のトミーの個性も尊重し、誰よりも「生徒」に寄り添う。

マダム

時々ヘールシャムに訪れ生徒たちの作品を「展示会」のために選出する謎の女性。

ネタバレ感想

この作品はミステリーではないし、ストーリーを追うことが主目的ではないが、どのような結末を迎えるのだろうか、という点も楽しみの一つなので詳細は割愛する。(これから読む予定のある人はここから先には進まない方がいいかもしれない。)

—–ネタバレを含みます—–

 

 

重い内容にもかかわらず、淡々と静かに物語は進行していく。登場人物の心の機微が丁寧に描かれていて、思春期特有の瑞々しさが爽やかに感じる。「こういう子、同級生にいたな」という少年少女ばかりで、私たちの世界となんら変わらない。しかし彼らの運命は残酷なものだ。彼らはただただ自分の臓器を「提供」するためだけに生きている。そんな運命を受け入れ、反乱が起こることが無いのも違和感や不気味さを強調している。

これは非現実的なSFなのか?

ヘールシャムの生徒たちも、他の施設にいる者たちも、暴動を起こしたりせずただただ運命を受け入れている。それほどまでに洗脳されているのか、ヘールシャムのような施設以外は劣悪すぎるのか。しかし、「本気で愛し合っていることを証明できればそのカップルは提供を猶予される」という噂を多くの生徒たちが信じ、それを実現しようと努力していることから、わずかでも抗いたい気持ちが心の奥底にはあるのではないか。

「臓器提供のためだけのクローン人間を作る」というのは今の社会においては突拍子もない、実現し得ない事のように思えるが(とはいえ技術の発展に法や社会制度の整備が追いつかなくなった時、それは起こり得るとは思うし、対人間でないものについては似たようなことが実際になされている)、極端でインパクトのある設定というだけで似たような状況は現実にもあるのではないだろうか。例えば戦争に駆り出される軍人。いざとなれば命を捧げる覚悟で訓練を行う。「そのためだけに」生まれたわけではないという点ではクローン人間と出生事情は異なるが、「自分を犠牲にしろ」と他者に指示されそれを受け入れるという点では変わらないだろう。命という大袈裟なものでなくとも、格差社会の底辺や貧困国に生まれ、這い上がるチャンスも得られずその環境を受け入れざるを得ない人々もたくさんいる。「世界は常に公平公正というわけではない」「自分が見えている日の当たる場所だけが世界ではない」というメッセージをこの強烈な世界観に反映させているように感じた。

エミリ先生の「運動」は善か偽善か

エミリ先生とマダムは、「提供者」にも魂があり、同じ人間なのだと世間に理解してもらい、人道的な扱いをするよう尽力してきた。その「運動」は、世界を支配し得るほどの能力をクローン人間に与える可能性が違法な研究によって出てきてしまったことで挫かれる。「恐れ」は「嫌悪」につながるという典型的な描写だ。現実社会においての差別問題の根幹はここにあると思う。

試みは頓挫したが、エミリ先生は自分のしてきたことを後悔していないし、正しいと思っている。最終的な運命を変えることはできないが、それまでの間にたくさんの思い出を作り、友情を育み、恋愛も経験し、クローンではない「普通」の人たちとほとんど同じ生活を送ることができたのだから、と。一方で、愛する存在があるからこそ、このような運命がより残酷で受け入れがたいものになり得る、という側面がもう少し描かれても良かったような気はする。「こんな悲しみや苦しみを味わうくらいなら、余計な期待はさせないでくれ」という人がいても不思議ではないが、そう主張する人物は登場しない。それは、「提供」という形であろうと「寿命」という形であろうと人生はいつか終わるもので、最終的に死ぬから無駄だとか、失うのが辛いから最初から要らないというのは違うのではないか、ということなのかもしれない。

エミリ先生は、「臓器提供のためのクローン人間の製造」をやめさせる力が無いのでせめて提供者として生まれた人たちに幸せを感じてほしいと願っていた。ルーシー先生も生徒たちのことを思いやっていたが、エミリ先生とは違い「生徒たちの宿命について隠すことは彼らを騙すことに他ならない」と考えていた。エミリ先生は真実を伝えることが生徒たちのためだとは思わない、と、意見が対立し、最終的にルーシー先生はヘールシャムを去った。どちらが正しいのかはわからない。確かに待ち受ける運命を知っていたら、自暴自棄になる人もいるかもしれないし、真実を伝えることでただ自分の罪悪感を軽くしたいだけだという思いもあるのかもしれない。いずれにしても、「提供者の幸せを願う」というのは提供者側ではない者の傲慢とも取れるかもしれない。この作品の世界において臓器提供用クローン人間の存在は都合の良いものなのだ。本作品におけるクローン人間だけでなく、現実世界でも例えば低賃金で過酷な労働を強いられている人の存在によって安価に物が手に入り、生活が潤う、ということは実際にある。人は誰しも大なり小なり、自分さえ、自分の近しい人さえ助かれば赤の他人の犠牲には目を瞑る。平和な世界に生きているとそのような状況に陥ることは少ない(もしくはただ視界から隠されているだけか、程度がもっと軽い)ため自分の残酷さや身勝手さと向き合うことはあまりない。自己犠牲が美徳とは全く思わないし、これは自然な生存本能ではあると思うが、そのような現実から目を背け「自分は善良なる人間で、他人の犠牲の上になど生きていない」と考える人がいるならば、それこそ自分にとって都合の良い世界しか見ていない「偽善者」なのだろうと思う。

かといって、弱肉強食は当然であり恵まれない人間に手を差し伸べる必要などない、と開き直るような社会が幸せにつながるとも思えない。少なくともエミリ先生とマダムは自分の「善」を信じて行動した。それは、諦め自分の弱さを正当化し世の中を達観したような気になったり、綺麗事を振りかざすだけよりもずっと価値のあるものだと私は思う。