失われた時を求めて

作品について

原題:À la recherche du temps perdu

作者:マルセル・プルースト

出版年:1913-1927年

ジャンル: 文学

語り手による回想録。紅茶に浸した一口のマドレーヌをきっかけに幼少時代の思い出から恋愛模様、社交界の様相などが綴られる。

主な登場人物

語り手

名前は明記されていない。裕福な家庭に生まれる。病弱で、文学好き。

ジルベルト

語り手の初恋の相手。スワンとオデットの娘。

アルベルチーヌ

バルベック滞在中に出会った少女。

スワン

上流階級で語り手の祖父とスワンの父に親交があった。

オデット

スワンの妻で元高級娼婦。

フランソワーズ

語り手の家のメイド。

エルスチール

語り手がバルベックで出会った画家。

サン・ルー

語り手がバルベックで親交を深めたゲルマント家の貴公子。

 

他にもたくさんの登場人物が出てくるが、載せきれないので割愛する。

※前置き

長すぎて読了できていないので「スワン家のほうへ」と「花咲く乙女たちのかげに」まで読んだ感想を書いてみる。この作品はストーリーそのものに大きな意味があるというよりは、とにかく「文章を楽しむ」という色合いが強い。話の筋を追ってるだけでは何が面白いのかは全く伝わらないだろう。作者は文学・歴史・芸術への造詣が深く、それらをモチーフにした表現が散りばめられていたり比喩に用いられたりしていて、至る所に訳者による注釈がある。これらの知識があるとより一層楽しめるだろう。

ネタバレ感想

—–ネタバレを含みます—–

 

 

スワン家のほうへ

この物語は、語り手がかつて味わったマドレーヌの味をきっかけに様々な記憶が蘇ったことに端を発した回想録だ。最初は語り手が幼少期に過ごした田舎町のコンブレーから始まる。語り手が出会ったスワンはもうオデットと結婚しており、その身分差婚については周囲からの評判はあまり良くなかった。スワンはかなりの上流階級に属していて、社交界でもかなり有名であった。様々な女性とも付き合い、いわゆるプレイボーイという感じだ。そんなスワンが高級娼婦のオデットと出会い、のめり込んでいく様やスワンとオデットの関係が進展していく過程を、社交界事情も織り交ぜながら語り手の幼少時代から時を遡って描いている。終盤はスワンのオデットに対する熱が冷めてきたような描写から一足飛びに「結婚した」という結論に至り、スワンが結婚を決意した詳細については描かれていない。

花咲く乙女たちのかげに

時はまた語り手の少年時代に戻る。語り手は、スワンとオデットの娘であるジルベルトに恋をする。どうにか仲良くなり、ジルベルトの家(すなわちスワンとオデットの家でもある)にも出入りするようになる。しかし、いつもジルベルトと一緒にいたい語り手と、そんな語り手に好意的なオデットによって自由を制限されているように感じ始めたジルベルトは険悪になってしまう。初めは関係を修復しようと躍起になっていた語り手も、次第にジルベルトのことは諦めるようになる。

それから、語り手はバルベックという海辺の街に滞在することになる。そこでエルスチールという画家や、上流階級であるゲルマント家のサン・ルーと出会い、親交を深める。また、バルベックには少女たちのグループも滞在していて、語り手はそのグループとも共に時間を過ごすようになる。その少女たちの一人、アルベルチーヌに恋をする。以降のアルベルチーヌとの進展は続編に描かれることになる。

ここまでの感想

とにかく文章が長い。新訳版で、なるべく一文を短くわかりやすくするように心掛けたと訳者コメントにあったが、それでも読み返さないと飲み込めない文がいくつかあった。作者の中から文章が溢れ出るようにしてこの作品を書いたのだろうと想像できる。「スワン家のほうへ」と「花咲く乙女たちのかげに」を要約するとなんてことのないストーリーなのだが、厚めの文庫本4巻にもなる。

語り手のジルベルトに対する恋の駆け引きは、第三者から見ると「女々しいなぁ」というものだが、こんな風に明確に言語化されることがないだけで、おそらく誰しも持ってる心理なのではないかと思う。また、この語り手は女性がとにかく好きで、「誰でもいいのでは?」という印象を与えるが、この作品が「回想録」という点を踏まえると自分に正直な人だなとも思う。恋愛ごとになるとその「想い」が美化されがちだが、そういうのはあまり見られない。スワンが唐突にオデットと結婚した描写もそうだが、人が人と結びつくというのは、純粋で圧倒的な情熱の結果とは異なるものなのかもしれないと思わせる。一方で、語り手はバルベックの「少女グループ」の一人ひとりはまるで違う存在なのだということもちゃんと認識している。語り手のそんな特徴を通じて、作者であるプルーストも人のことをよく観察していたのだろうなと思う。

有名なシーン

この作品で一番有名な場面は紅茶に浸ったマドレーヌの味によって鮮やかに記憶が蘇ってきたところらしい。似たような経験を持つ人も多いとは思うが、これは「匂い」が記憶と密接につながっているからではないかと思われる。「味」も嗅覚がないと感じることができないものであるし、春の匂い感じると新生活でドキドキしたこと、卒業で少し寂しい気持ちになったことを思い出したりする。「懐かしさ」を覚えるときもその時の匂い(例えば畳の匂いだったり、個々の家独特の匂いだったり、雨の匂いだったり、洗濯物の匂いだったり)が再現されているように感じる。

こゝろ

作品について

原題:こゝろ

作者:夏目漱石

出版年:1914年

ジャンル: 文学

主人公の「私」が「先生」と出会い、交流を深めていく中で、「先生」の過去、どのように奥さんと出会ったのか、毎月誰の墓参りをしているのか、について知ることになる。

主な登場人物

語り手。学生であり、鎌倉の海で「先生」に出会い交流を深めていく。「先生」の秘密を打ち明けられた唯一の人。

先生

妻と2人でひっそりと暮らし、世間と一線を引いている。「私」に宛てた書簡で過去を告白する。

「先生」の妻。軍人であった父親を早くに亡くし、母親と2人で暮らしていた。

K

「先生」の告白の中に出てくる学生時代の友人。

作品の背景と解釈について

有名な文学なので様々な感想・解釈が存在する。
「先生の死は、明治という時代の終わりを象徴している」
「エゴイズムを描いた作品である」
具体的な個人の物語としても読めるが、その背景にはより大きなテーマが存在していると考えられる。明治は西洋化が進んだ時代で、日本古来の「集団」主義から「個人」主義への過渡期であることが、「私」の世代の感覚と「先生」の感覚は違う、それは「時勢の推移から来る人間の相違」であるという表現に反映されている。「個人」を優先することとエゴイズムのつながりについての問いを投げかけられているように思う。 

ネタバレ感想

—–ネタバレを含みます—–

 

 

「先生」は、達観していて懐の深い、高尚な人間のように映るが、その過去には人間らしい弱さを抱えていた。その弱さや人間らしさは、Kを出し抜いてまで「お嬢さん」を手に入れたという行動において強調されているように見えるが、むしろその「自白」そのものに表れているように思う。「私」が知りたいと迫ったから、という大義名分によって懺悔をし、自死した。その中で「自分の妻(お嬢さん)への愛は純粋なものであった」ということを一生懸命伝えている。Kに対する罪悪感によって、「この愛が本物でなければほんのわずかな自尊心さえも否定されてしまう」とでも言っているようだ。「先生」は、自分が、軽蔑した叔父さんと同じ人間であることに失望し、他人にも自分にも愛想が尽きたと言っているが、それさえも、最後に残った自分の精神を保つためではないかと思う。自分は道徳から外れたことをしたと認めている、認めているからまだマシだと。そのような「先生」の人間臭さが、手記全体に滲み出ている。

Kの自殺と先生の自死

Kはなぜ自殺したのか。「先生」は、孤独のためで、自分もまたその道を辿っていると言っているが、真相は誰にもわからない。「先生」とKは似ているようで全く違うタイプだ。「先生」自身、Kには敵わないと白旗を上げている。だからこそ、真っ向から勝負することができずにあのような行動をとったのだろう。Kは、裏切られたからとか、道を極めようとするのに恋にうつつをぬかしてしまったことを「先生」に指摘されたから、絶望して自殺したのだろうか。そうではなくて、恋のために心をかき乱された結果、「先生」を憎みそうになる自分を恐れたのではないか、とみることもできる。Kは養家や実家の彼に対する扱いに恨みがあったようには見えない。ひたすらに、自分の信じる「道」を極めたいという一心だった。全てはその手段だったのだ。そこに「愛憎」などという最も俗っぽいものが自分を支配し始めたことに堪えられなかったのかもしれない。一方で、「先生」は叔父に対する憎しみを自覚し、お嬢さんに対する恋愛感情も、Kに対する嫉妬も、そのまま受け入れていた。そしてある種の「報い」として死を選んだ。2人とも、自分の「倫理」を失いたくないという思いが根底にあったことは共通しているが、自殺に至るまでの心のあり方は異なっていたのではないかと思う。

個人主義とエゴイズム

誰しも恋愛感情によって利己的に振る舞うことがあるだろう。そこに自分を投影する人もいると思う。「先生」は卑怯だ、という感想もあるだろうしそれが人間だよねと思う人もいるだろう。それでも「先生」は善良な人間で、罪に苛まれる良心や、秘密を抱えたまま死ぬことで愛する妻を守ろうとする誠実さを持ち合わせていると考えることもできる。そしてそれは真実にも思える。しかし、「エゴ」とは選択ではなく、自分の「正義」「信念」「道徳」にすがりつきたいという心なのかもしれない。そういう意味では「先生」もKも利己的な人間である。「私」や現代の私たちにとっては、恋愛でも仕事でも、自分の利益のために競争相手を打ち負かすことが自殺しなければならないほどの罪悪なのか?と疑問である。個人主義によるエゴイズムは自身の実益ではなく各々の価値判断基準に固執してしまうところにあるのではないだろうか。