罪と罰

作品について

原題:Преступление и наказание

作者:フョードル・ドフトエフスキー

出版年:1866年

ジャンル: 文学

貧しい大学生が高利貸しの卑しい老婆に対して強盗殺人を実行するが、老婆だけでなく偶然居合わせてしまった老婆の妹までも殺害してしまう。その罪の意識に苛まれる主人公の苦悩を描いている。

主な登場人物

ラスコーリニコフ

本作品の主人公。学費を払えず大学を追われた。

ソーニャ

マルメラードフの娘で生活を支えるために売春をしている。

ポルフィーリー

予審判事。心理戦でラスコーリニコフの罪を暴こうとする。

ラズミーヒン

ラスコーリニコフの学友。

アリョーナ・イワーノヴナ

高利貸しの老婆。

リザヴェータ・イワーノヴナ

アリョーナの義理の妹。

ドーニャ

ラスコーリニコフの妹。

プリへーリヤ

ラスコーリニコフとドーニャの母親。

ルージン

ドーニャの婚約者。

マルメラードフ

ラスコーリニコフが居酒屋で出会った九等官の官吏でソーニャの父親。

カテリーナ・イワーノヴナ

マルメラードフの2人目の妻。

ナスターシャ

ラスコーリニコフの下宿先の女中。

スヴィドリガイロフ

かつてドーニャが住み込みで家庭教師をしていた家の主人。

ネタバレ感想

—–ネタバレを含みます—–

 

 

罪とは何か

なぜラスコーリニコフは強盗殺人を企て実行したのか?人間を「凡人」「非凡人」の2層に分けた時、ラスコリーニコフは自分が「非凡人」側だと錯覚した。「非凡人」は(歴史上の偉人たちのように)人類の進歩のための先導者であり、彼らの偉大な目的達成(思想や発見の流布)の障害を取り除くためであれば犠牲を払うことを「許されている」。そしてそれは法的な意味での許可ではなく、彼ら自身の良心に対してであると、ラスコリーニコフは自身の論文で暗示した思想について補足している。

本作品においては主人公はただの貧乏学生なので「トンデモ理論の勘違い」であり、彼の犯した殺人は明確に間違っていると冷静に思えるが、このような思想は程度の差はあれ世の中にたくさんある。ナポレオンなどの歴史的偉人や戦争という大規模な話ではなくとも、「大義名分のためなら多少の犠牲は仕方ないだろう」という考えの下に行われる意思決定というのはありふれている。警察や裁判所だって「信用を失墜させてはならない」と自らの過ちを必死に隠そうとしたり、間違っていると分かっていても無罪の人間を有罪にしたり、逆に上級国民だからとか外交上の理由でと不起訴にしたり。これらは、直接的・間接的に命を奪うことも含めて「関係者の人生を狂わせる」という点ではラスコーリニコフの犯した罪と同じである。他にも、会社を守るため、個人を守るため、誰かを傷つけることを正当化する場面は枚挙にいとまがない。当事者やそれに共感する人々にとっては「仕方がない」ことでも、その正当化は当然なのか?今一度立ち止まって考えてみる必要があるのではと問いかけられていると感じた。

前半では、「貧困」が罪を誘発させるのではないか、と思った。ラスコーリニコフはかなり困窮していてまともな生活を送れておらず、正常な判断ができない状態だったために常軌を逸した行動に出たのではないか?と。それも1つの要因ではあったが、それが主軸ではないだろう。「自分は非凡な人間である、そしてその非凡な人間の糧となるなら卑しい役にも立たない老婆など殺して構わない」という信念が引き起こした事件であり、実際、自首してからも悔やむのは「命を奪った」ことではなく「非凡であるなら良心の呵責など感じることなく次のステージへ進めたはずなのにそれができなかった」ということだった。ラスコーリニコフの自身への失望は、自分が善良でないとか悪であるとかではなく、ただの凡人だった、ということなのだ。

罰とは何か

投獄されるということが「罰」に思えるが、ラスコーリニコフにとってそれは苦悩からの解放を意味するので、本当の罰とはなり得ない。罪(法律)を犯したら捕まる。懲役何年とか、死刑とか、刑罰を客観的に見て相応の罰を受けたかどうかを周りはジャッジする。だが、それは社会秩序維持のための隔離にすぎず、真の意味での「罰」ではないように思える。ラスコーリニコフのように、投獄されるよりも自由に動き回れて、自問し、苦悩し続けている状態の方がよっぽどの罰であるというケースは現実にも多くあるだろう。外圧によって「罰」を与えるというのは、思っている以上に難しいことなのかもしれない。

スヴィドリガイロフとラスコーリニコフ

スヴィドリガイロフも中々の悪党で、自分のために人を利用し踏みつけることのできる人間だ。彼もラスコーリニコフも自殺を考え、一方は実行し、一方は思いとどまった。その違いは何だったのだろうか。ラスコーリニコフにはソーニャがいたが、スヴィドリガイロフはドーニャに拒絶されたことか?ラスコーリニコフには何よりも大切な母や妹がいたがスヴィドリガイロフにはそのような存在がいなかったことか?スヴィドリガイロフは亡くなった(彼が殺した?)妻とも財産が目当てのような結婚であったし、ペテルブルクに来てから婚約したという若い娘も「お金で買った」ような関係であり、ラスコーリニコフのようなすっからかん状態でも、利害など関係なく大切にしたい存在がいるのかどうかということは大きいのだろう。自分にしろ他人にしろ、一線を踏み越えるのかどうかというところでそういう存在は大きく影響するということだと思う。

ポルフィーリーとのせめぎ合い

ポルフィーリーがラスコーリニコフを追い詰めていくところは緊迫感があって面白い。「罪と罰」という哲学的でとっつきにくそうな、何やら難しいことがつらつらと書かれているような印象を持ちそうなテーマでも、とても読みやすい作品になった要素として機能しているように思う。読者には犯行の顛末が最初から明らかではあるが、ポルフィーリーvsラスコーリニコフの勝負の行方をハラハラドキドキしながら読むのは推理小説を読むような面白さがある。ポルフィーリーに追い詰められていく様と、ラスコーリニコフ自身の良心に追い詰められていく様がリンクしていて、ラスコーリニコフの苦悩をよりわかりやすい形で追うことができる。

 

アンナ・カレーニナ

作品について

原題:Анна Каренина

作者:レフ・トルストイ

出版年:1877年

ジャンル: 文学

アンナとヴロンスキーの道ならぬ恋についての物語である。上流階級社会を舞台に展開される。題名にもなっているアンナが主人公だが、リョービンの世界観が軸となっているように感じる。「アンナと彼女を取り巻く出来事」が題材となっていて、リョービンがそれらを通して自分の価値観や道徳観を形成していく話、とも取れるのではないだろうか。

主な登場人物

アンナ

題名にもなっている、本作品の主人公。周囲を惹きつける美貌や愛嬌を持っている。

ヴロンスキー

アンナに一目惚れした上流階級の紳士(?)。

リョービン

田舎で農業経営をしている、実直な男。作者トルストイの分身として描かれているのではないかとされている。

キチイ

リョービンが想いを寄せる上流階級のお嬢様。

カレーニン

アンナの夫で官僚。冷淡な印象を周りに与えている。

オブロンスキー

アンナの兄。陽気で自由主義者。世渡りが上手い。

ドリイ

オブロンスキーの妻でキチイの姉。上流階級だが割と普通な主婦。

対比

アンナとヴロンスキーの恋とリョービンとキチイの物語が対比的に並行して進んでいく。リョービンは田舎に暮らし、田舎を愛しているのに対してアンナは都会で生きてきたという点でも2人が対照的に描かれている。

この2組をつなぐ存在としてオブロンスキー・ドリイ夫妻も重要である。この夫婦が一番世の中にありふれたものではないかと思う。破滅の道を歩むでもなく、清廉潔白でもない。過ちを見て見ぬ振りをしたり、現実的に生きていくことしかできない普通の人たち。オブロンスキーの不貞がバレたことを起点として、アンナ・ヴロンスキーとリョービン・キチイは対極的な結末に向かっていく。

ネタバレ感想

—–ネタバレを含みます—–

 

 

キリスト教

本作品の中でキリスト教は登場人物の行動や価値観を形成する核となっている。リョービンは科学的ではない話については無頓着だったが、自身の家族を築いていく中で信仰心が芽生えた。また、カレーニンも絶望から信仰によって救われている。アンナの辿る結末も、キリスト教的な道徳観を反映している。自殺はキリスト教においては最も罪悪なことであり、アンナの過ちはそれに値する「悪」であるということが示唆されている。

「善」とは何か

リョービンはキリスト教的「善」について考え、「善」とは神の啓示によってもたらされるものだという結論に達している。目に見える不変的な現象に基礎を置くべきであるとリョービンは考えているが、つまりそれは、目に見える道徳、これは善であると自然に人々が受け入れるものという意味かもしれない。

その点において、アンナが夫を裏切りヴロンスキーのもとへ行ったのは「善」を破壊する行為であるだろう。アンナは目に見える「不変の」道徳から目を背け、自分の気持ちに従った。そして最悪の結末を迎えた。ただ、最悪の結末を迎えたことがアンナの人生全てを否定することになるかは疑問だ。「多数が正しいと思うこと」に従うのは社会に属する上で重要なことではあるが、それが唯一絶対の真理であると断定するのは少し危険な気がする。人は「絶対的に正しいこと」を示してもらった方が、曖昧さの中で悩み苦しむより楽ではあるだろう。その基準を「宗教的道徳観」や「多数派」に求めてしまう。しかし実際の世界はそんなに単純で割り切れるようなものではないと思う。

アンナはなぜ幸せになれなかったのか

アンナがカレーニンともヴロンスキーとも幸せになれなかったのは何故だろうか。「善」に背いたからなのであろうか。

ヴロンスキーについては、後半は嫉妬に苦しんでいた。そして彼が自分から離れていってしまう、全てを失ってしまうという恐怖にとらわれていた。それは自分がキチイからヴロンスキーを奪うような形になってしまったこと、そしてあらゆるものを犠牲にして自分の気持ちを優先させたことに対する後ろめたさ故だろうか。カレーニンについてはどうだろう。アンナは彼を冷淡な人間だと感じ、愛していなかった。ヴロンスキーとのことを告白した時も、もしカレーニンがヴロンスキーに決闘を申し込み殺す覚悟があれば、彼を見直し、人間であることを認めたのに、と考えていた。カレーニンがアンナを許そうとした時にも、そのことについてさえ嫌悪感を持っていた。だがアンナはヴロンスキーとの子供よりも、カレーニンとの子供であるセリョージャを愛していた。カレーニンに対するアンナの罪は、どのような経緯であれ、築いてきたものを軽視し向き合おうとしなかったことなのであろうか。

アンナは、ヴロンスキーのこともカレーニンのことも愛しておらず、自分自身のことしか見えなかったのかもしれない。自分の気持ちに従うこと自体が悪だとは思わないし、自己犠牲が美徳だとも思わない。しかし、「自分に何を与えてくれるか」ばかりでは幸せに近づけないのかもしれない。作者は、上流階級の欺瞞・傲慢さによる、キリスト教の掟や神の啓示に背くことの罪悪として描いたかもしれないが、宗教、時代や国を超えて普遍的な問いかけをしてくる作品だと思う。