罪と罰

作品について

原題:Преступление и наказание

作者:フョードル・ドフトエフスキー

出版年:1866年

ジャンル: 文学

貧しい大学生が高利貸しの卑しい老婆に対して強盗殺人を実行するが、老婆だけでなく偶然居合わせてしまった老婆の妹までも殺害してしまう。その罪の意識に苛まれる主人公の苦悩を描いている。

主な登場人物

ラスコーリニコフ

本作品の主人公。学費を払えず大学を追われた。

ソーニャ

マルメラードフの娘で生活を支えるために売春をしている。

ポルフィーリー

予審判事。心理戦でラスコーリニコフの罪を暴こうとする。

ラズミーヒン

ラスコーリニコフの学友。

アリョーナ・イワーノヴナ

高利貸しの老婆。

リザヴェータ・イワーノヴナ

アリョーナの義理の妹。

ドーニャ

ラスコーリニコフの妹。

プリへーリヤ

ラスコーリニコフとドーニャの母親。

ルージン

ドーニャの婚約者。

マルメラードフ

ラスコーリニコフが居酒屋で出会った九等官の官吏でソーニャの父親。

カテリーナ・イワーノヴナ

マルメラードフの2人目の妻。

ナスターシャ

ラスコーリニコフの下宿先の女中。

スヴィドリガイロフ

かつてドーニャが住み込みで家庭教師をしていた家の主人。

ネタバレ感想

—–ネタバレを含みます—–

 

 

罪とは何か

なぜラスコーリニコフは強盗殺人を企て実行したのか?人間を「凡人」「非凡人」の2層に分けた時、ラスコリーニコフは自分が「非凡人」側だと錯覚した。「非凡人」は(歴史上の偉人たちのように)人類の進歩のための先導者であり、彼らの偉大な目的達成(思想や発見の流布)の障害を取り除くためであれば犠牲を払うことを「許されている」。そしてそれは法的な意味での許可ではなく、彼ら自身の良心に対してであると、ラスコリーニコフは自身の論文で暗示した思想について補足している。

本作品においては主人公はただの貧乏学生なので「トンデモ理論の勘違い」であり、彼の犯した殺人は明確に間違っていると冷静に思えるが、このような思想は程度の差はあれ世の中にたくさんある。ナポレオンなどの歴史的偉人や戦争という大規模な話ではなくとも、「大義名分のためなら多少の犠牲は仕方ないだろう」という考えの下に行われる意思決定というのはありふれている。警察や裁判所だって「信用を失墜させてはならない」と自らの過ちを必死に隠そうとしたり、間違っていると分かっていても無罪の人間を有罪にしたり、逆に上級国民だからとか外交上の理由でと不起訴にしたり。これらは、直接的・間接的に命を奪うことも含めて「関係者の人生を狂わせる」という点ではラスコーリニコフの犯した罪と同じである。他にも、会社を守るため、個人を守るため、誰かを傷つけることを正当化する場面は枚挙にいとまがない。当事者やそれに共感する人々にとっては「仕方がない」ことでも、その正当化は当然なのか?今一度立ち止まって考えてみる必要があるのではと問いかけられていると感じた。

前半では、「貧困」が罪を誘発させるのではないか、と思った。ラスコーリニコフはかなり困窮していてまともな生活を送れておらず、正常な判断ができない状態だったために常軌を逸した行動に出たのではないか?と。それも1つの要因ではあったが、それが主軸ではないだろう。「自分は非凡な人間である、そしてその非凡な人間の糧となるなら卑しい役にも立たない老婆など殺して構わない」という信念が引き起こした事件であり、実際、自首してからも悔やむのは「命を奪った」ことではなく「非凡であるなら良心の呵責など感じることなく次のステージへ進めたはずなのにそれができなかった」ということだった。ラスコーリニコフの自身への失望は、自分が善良でないとか悪であるとかではなく、ただの凡人だった、ということなのだ。

罰とは何か

投獄されるということが「罰」に思えるが、ラスコーリニコフにとってそれは苦悩からの解放を意味するので、本当の罰とはなり得ない。罪(法律)を犯したら捕まる。懲役何年とか、死刑とか、刑罰を客観的に見て相応の罰を受けたかどうかを周りはジャッジする。だが、それは社会秩序維持のための隔離にすぎず、真の意味での「罰」ではないように思える。ラスコーリニコフのように、投獄されるよりも自由に動き回れて、自問し、苦悩し続けている状態の方がよっぽどの罰であるというケースは現実にも多くあるだろう。外圧によって「罰」を与えるというのは、思っている以上に難しいことなのかもしれない。

スヴィドリガイロフとラスコーリニコフ

スヴィドリガイロフも中々の悪党で、自分のために人を利用し踏みつけることのできる人間だ。彼もラスコーリニコフも自殺を考え、一方は実行し、一方は思いとどまった。その違いは何だったのだろうか。ラスコーリニコフにはソーニャがいたが、スヴィドリガイロフはドーニャに拒絶されたことか?ラスコーリニコフには何よりも大切な母や妹がいたがスヴィドリガイロフにはそのような存在がいなかったことか?スヴィドリガイロフは亡くなった(彼が殺した?)妻とも財産が目当てのような結婚であったし、ペテルブルクに来てから婚約したという若い娘も「お金で買った」ような関係であり、ラスコーリニコフのようなすっからかん状態でも、利害など関係なく大切にしたい存在がいるのかどうかということは大きいのだろう。自分にしろ他人にしろ、一線を踏み越えるのかどうかというところでそういう存在は大きく影響するということだと思う。

ポルフィーリーとのせめぎ合い

ポルフィーリーがラスコーリニコフを追い詰めていくところは緊迫感があって面白い。「罪と罰」という哲学的でとっつきにくそうな、何やら難しいことがつらつらと書かれているような印象を持ちそうなテーマでも、とても読みやすい作品になった要素として機能しているように思う。読者には犯行の顛末が最初から明らかではあるが、ポルフィーリーvsラスコーリニコフの勝負の行方をハラハラドキドキしながら読むのは推理小説を読むような面白さがある。ポルフィーリーに追い詰められていく様と、ラスコーリニコフ自身の良心に追い詰められていく様がリンクしていて、ラスコーリニコフの苦悩をよりわかりやすい形で追うことができる。

 

失われた時を求めて

作品について

原題:À la recherche du temps perdu

作者:マルセル・プルースト

出版年:1913-1927年

ジャンル: 文学

語り手による回想録。紅茶に浸した一口のマドレーヌをきっかけに幼少時代の思い出から恋愛模様、社交界の様相などが綴られる。

主な登場人物

語り手

名前は明記されていない。裕福な家庭に生まれる。病弱で、文学好き。

ジルベルト

語り手の初恋の相手。スワンとオデットの娘。

アルベルチーヌ

バルベック滞在中に出会った少女。

スワン

上流階級で語り手の祖父とスワンの父に親交があった。

オデット

スワンの妻で元高級娼婦。

フランソワーズ

語り手の家のメイド。

エルスチール

語り手がバルベックで出会った画家。

サン・ルー

語り手がバルベックで親交を深めたゲルマント家の貴公子。

 

他にもたくさんの登場人物が出てくるが、載せきれないので割愛する。

※前置き

長すぎて読了できていないので「スワン家のほうへ」と「花咲く乙女たちのかげに」まで読んだ感想を書いてみる。この作品はストーリーそのものに大きな意味があるというよりは、とにかく「文章を楽しむ」という色合いが強い。話の筋を追ってるだけでは何が面白いのかは全く伝わらないだろう。作者は文学・歴史・芸術への造詣が深く、それらをモチーフにした表現が散りばめられていたり比喩に用いられたりしていて、至る所に訳者による注釈がある。これらの知識があるとより一層楽しめるだろう。

ネタバレ感想

—–ネタバレを含みます—–

 

 

スワン家のほうへ

この物語は、語り手がかつて味わったマドレーヌの味をきっかけに様々な記憶が蘇ったことに端を発した回想録だ。最初は語り手が幼少期に過ごした田舎町のコンブレーから始まる。語り手が出会ったスワンはもうオデットと結婚しており、その身分差婚については周囲からの評判はあまり良くなかった。スワンはかなりの上流階級に属していて、社交界でもかなり有名であった。様々な女性とも付き合い、いわゆるプレイボーイという感じだ。そんなスワンが高級娼婦のオデットと出会い、のめり込んでいく様やスワンとオデットの関係が進展していく過程を、社交界事情も織り交ぜながら語り手の幼少時代から時を遡って描いている。終盤はスワンのオデットに対する熱が冷めてきたような描写から一足飛びに「結婚した」という結論に至り、スワンが結婚を決意した詳細については描かれていない。

花咲く乙女たちのかげに

時はまた語り手の少年時代に戻る。語り手は、スワンとオデットの娘であるジルベルトに恋をする。どうにか仲良くなり、ジルベルトの家(すなわちスワンとオデットの家でもある)にも出入りするようになる。しかし、いつもジルベルトと一緒にいたい語り手と、そんな語り手に好意的なオデットによって自由を制限されているように感じ始めたジルベルトは険悪になってしまう。初めは関係を修復しようと躍起になっていた語り手も、次第にジルベルトのことは諦めるようになる。

それから、語り手はバルベックという海辺の街に滞在することになる。そこでエルスチールという画家や、上流階級であるゲルマント家のサン・ルーと出会い、親交を深める。また、バルベックには少女たちのグループも滞在していて、語り手はそのグループとも共に時間を過ごすようになる。その少女たちの一人、アルベルチーヌに恋をする。以降のアルベルチーヌとの進展は続編に描かれることになる。

ここまでの感想

とにかく文章が長い。新訳版で、なるべく一文を短くわかりやすくするように心掛けたと訳者コメントにあったが、それでも読み返さないと飲み込めない文がいくつかあった。作者の中から文章が溢れ出るようにしてこの作品を書いたのだろうと想像できる。「スワン家のほうへ」と「花咲く乙女たちのかげに」を要約するとなんてことのないストーリーなのだが、厚めの文庫本4巻にもなる。

語り手のジルベルトに対する恋の駆け引きは、第三者から見ると「女々しいなぁ」というものだが、こんな風に明確に言語化されることがないだけで、おそらく誰しも持ってる心理なのではないかと思う。また、この語り手は女性がとにかく好きで、「誰でもいいのでは?」という印象を与えるが、この作品が「回想録」という点を踏まえると自分に正直な人だなとも思う。恋愛ごとになるとその「想い」が美化されがちだが、そういうのはあまり見られない。スワンが唐突にオデットと結婚した描写もそうだが、人が人と結びつくというのは、純粋で圧倒的な情熱の結果とは異なるものなのかもしれないと思わせる。一方で、語り手はバルベックの「少女グループ」の一人ひとりはまるで違う存在なのだということもちゃんと認識している。語り手のそんな特徴を通じて、作者であるプルーストも人のことをよく観察していたのだろうなと思う。

有名なシーン

この作品で一番有名な場面は紅茶に浸ったマドレーヌの味によって鮮やかに記憶が蘇ってきたところらしい。似たような経験を持つ人も多いとは思うが、これは「匂い」が記憶と密接につながっているからではないかと思われる。「味」も嗅覚がないと感じることができないものであるし、春の匂い感じると新生活でドキドキしたこと、卒業で少し寂しい気持ちになったことを思い出したりする。「懐かしさ」を覚えるときもその時の匂い(例えば畳の匂いだったり、個々の家独特の匂いだったり、雨の匂いだったり、洗濯物の匂いだったり)が再現されているように感じる。

こゝろ

作品について

原題:こゝろ

作者:夏目漱石

出版年:1914年

ジャンル: 文学

主人公の「私」が「先生」と出会い、交流を深めていく中で、「先生」の過去、どのように奥さんと出会ったのか、毎月誰の墓参りをしているのか、について知ることになる。

主な登場人物

語り手。学生であり、鎌倉の海で「先生」に出会い交流を深めていく。「先生」の秘密を打ち明けられた唯一の人。

先生

妻と2人でひっそりと暮らし、世間と一線を引いている。「私」に宛てた書簡で過去を告白する。

「先生」の妻。軍人であった父親を早くに亡くし、母親と2人で暮らしていた。

K

「先生」の告白の中に出てくる学生時代の友人。

作品の背景と解釈について

有名な文学なので様々な感想・解釈が存在する。
「先生の死は、明治という時代の終わりを象徴している」
「エゴイズムを描いた作品である」
具体的な個人の物語としても読めるが、その背景にはより大きなテーマが存在していると考えられる。明治は西洋化が進んだ時代で、日本古来の「集団」主義から「個人」主義への過渡期であることが、「私」の世代の感覚と「先生」の感覚は違う、それは「時勢の推移から来る人間の相違」であるという表現に反映されている。「個人」を優先することとエゴイズムのつながりについての問いを投げかけられているように思う。 

ネタバレ感想

—–ネタバレを含みます—–

 

 

「先生」は、達観していて懐の深い、高尚な人間のように映るが、その過去には人間らしい弱さを抱えていた。その弱さや人間らしさは、Kを出し抜いてまで「お嬢さん」を手に入れたという行動において強調されているように見えるが、むしろその「自白」そのものに表れているように思う。「私」が知りたいと迫ったから、という大義名分によって懺悔をし、自死した。その中で「自分の妻(お嬢さん)への愛は純粋なものであった」ということを一生懸命伝えている。Kに対する罪悪感によって、「この愛が本物でなければほんのわずかな自尊心さえも否定されてしまう」とでも言っているようだ。「先生」は、自分が、軽蔑した叔父さんと同じ人間であることに失望し、他人にも自分にも愛想が尽きたと言っているが、それさえも、最後に残った自分の精神を保つためではないかと思う。自分は道徳から外れたことをしたと認めている、認めているからまだマシだと。そのような「先生」の人間臭さが、手記全体に滲み出ている。

Kの自殺と先生の自死

Kはなぜ自殺したのか。「先生」は、孤独のためで、自分もまたその道を辿っていると言っているが、真相は誰にもわからない。「先生」とKは似ているようで全く違うタイプだ。「先生」自身、Kには敵わないと白旗を上げている。だからこそ、真っ向から勝負することができずにあのような行動をとったのだろう。Kは、裏切られたからとか、道を極めようとするのに恋にうつつをぬかしてしまったことを「先生」に指摘されたから、絶望して自殺したのだろうか。そうではなくて、恋のために心をかき乱された結果、「先生」を憎みそうになる自分を恐れたのではないか、とみることもできる。Kは養家や実家の彼に対する扱いに恨みがあったようには見えない。ひたすらに、自分の信じる「道」を極めたいという一心だった。全てはその手段だったのだ。そこに「愛憎」などという最も俗っぽいものが自分を支配し始めたことに堪えられなかったのかもしれない。一方で、「先生」は叔父に対する憎しみを自覚し、お嬢さんに対する恋愛感情も、Kに対する嫉妬も、そのまま受け入れていた。そしてある種の「報い」として死を選んだ。2人とも、自分の「倫理」を失いたくないという思いが根底にあったことは共通しているが、自殺に至るまでの心のあり方は異なっていたのではないかと思う。

個人主義とエゴイズム

誰しも恋愛感情によって利己的に振る舞うことがあるだろう。そこに自分を投影する人もいると思う。「先生」は卑怯だ、という感想もあるだろうしそれが人間だよねと思う人もいるだろう。それでも「先生」は善良な人間で、罪に苛まれる良心や、秘密を抱えたまま死ぬことで愛する妻を守ろうとする誠実さを持ち合わせていると考えることもできる。そしてそれは真実にも思える。しかし、「エゴ」とは選択ではなく、自分の「正義」「信念」「道徳」にすがりつきたいという心なのかもしれない。そういう意味では「先生」もKも利己的な人間である。「私」や現代の私たちにとっては、恋愛でも仕事でも、自分の利益のために競争相手を打ち負かすことが自殺しなければならないほどの罪悪なのか?と疑問である。個人主義によるエゴイズムは自身の実益ではなく各々の価値判断基準に固執してしまうところにあるのではないだろうか。

アンナ・カレーニナ

作品について

原題:Анна Каренина

作者:レフ・トルストイ

出版年:1877年

ジャンル: 文学

アンナとヴロンスキーの道ならぬ恋についての物語である。上流階級社会を舞台に展開される。題名にもなっているアンナが主人公だが、リョービンの世界観が軸となっているように感じる。「アンナと彼女を取り巻く出来事」が題材となっていて、リョービンがそれらを通して自分の価値観や道徳観を形成していく話、とも取れるのではないだろうか。

主な登場人物

アンナ

題名にもなっている、本作品の主人公。周囲を惹きつける美貌や愛嬌を持っている。

ヴロンスキー

アンナに一目惚れした上流階級の紳士(?)。

リョービン

田舎で農業経営をしている、実直な男。作者トルストイの分身として描かれているのではないかとされている。

キチイ

リョービンが想いを寄せる上流階級のお嬢様。

カレーニン

アンナの夫で官僚。冷淡な印象を周りに与えている。

オブロンスキー

アンナの兄。陽気で自由主義者。世渡りが上手い。

ドリイ

オブロンスキーの妻でキチイの姉。上流階級だが割と普通な主婦。

対比

アンナとヴロンスキーの恋とリョービンとキチイの物語が対比的に並行して進んでいく。リョービンは田舎に暮らし、田舎を愛しているのに対してアンナは都会で生きてきたという点でも2人が対照的に描かれている。

この2組をつなぐ存在としてオブロンスキー・ドリイ夫妻も重要である。この夫婦が一番世の中にありふれたものではないかと思う。破滅の道を歩むでもなく、清廉潔白でもない。過ちを見て見ぬ振りをしたり、現実的に生きていくことしかできない普通の人たち。オブロンスキーの不貞がバレたことを起点として、アンナ・ヴロンスキーとリョービン・キチイは対極的な結末に向かっていく。

ネタバレ感想

—–ネタバレを含みます—–

 

 

キリスト教

本作品の中でキリスト教は登場人物の行動や価値観を形成する核となっている。リョービンは科学的ではない話については無頓着だったが、自身の家族を築いていく中で信仰心が芽生えた。また、カレーニンも絶望から信仰によって救われている。アンナの辿る結末も、キリスト教的な道徳観を反映している。自殺はキリスト教においては最も罪悪なことであり、アンナの過ちはそれに値する「悪」であるということが示唆されている。

「善」とは何か

リョービンはキリスト教的「善」について考え、「善」とは神の啓示によってもたらされるものだという結論に達している。目に見える不変的な現象に基礎を置くべきであるとリョービンは考えているが、つまりそれは、目に見える道徳、これは善であると自然に人々が受け入れるものという意味かもしれない。

その点において、アンナが夫を裏切りヴロンスキーのもとへ行ったのは「善」を破壊する行為であるだろう。アンナは目に見える「不変の」道徳から目を背け、自分の気持ちに従った。そして最悪の結末を迎えた。ただ、最悪の結末を迎えたことがアンナの人生全てを否定することになるかは疑問だ。「多数が正しいと思うこと」に従うのは社会に属する上で重要なことではあるが、それが唯一絶対の真理であると断定するのは少し危険な気がする。人は「絶対的に正しいこと」を示してもらった方が、曖昧さの中で悩み苦しむより楽ではあるだろう。その基準を「宗教的道徳観」や「多数派」に求めてしまう。しかし実際の世界はそんなに単純で割り切れるようなものではないと思う。

アンナはなぜ幸せになれなかったのか

アンナがカレーニンともヴロンスキーとも幸せになれなかったのは何故だろうか。「善」に背いたからなのであろうか。

ヴロンスキーについては、後半は嫉妬に苦しんでいた。そして彼が自分から離れていってしまう、全てを失ってしまうという恐怖にとらわれていた。それは自分がキチイからヴロンスキーを奪うような形になってしまったこと、そしてあらゆるものを犠牲にして自分の気持ちを優先させたことに対する後ろめたさ故だろうか。カレーニンについてはどうだろう。アンナは彼を冷淡な人間だと感じ、愛していなかった。ヴロンスキーとのことを告白した時も、もしカレーニンがヴロンスキーに決闘を申し込み殺す覚悟があれば、彼を見直し、人間であることを認めたのに、と考えていた。カレーニンがアンナを許そうとした時にも、そのことについてさえ嫌悪感を持っていた。だがアンナはヴロンスキーとの子供よりも、カレーニンとの子供であるセリョージャを愛していた。カレーニンに対するアンナの罪は、どのような経緯であれ、築いてきたものを軽視し向き合おうとしなかったことなのであろうか。

アンナは、ヴロンスキーのこともカレーニンのことも愛しておらず、自分自身のことしか見えなかったのかもしれない。自分の気持ちに従うこと自体が悪だとは思わないし、自己犠牲が美徳だとも思わない。しかし、「自分に何を与えてくれるか」ばかりでは幸せに近づけないのかもしれない。作者は、上流階級の欺瞞・傲慢さによる、キリスト教の掟や神の啓示に背くことの罪悪として描いたかもしれないが、宗教、時代や国を超えて普遍的な問いかけをしてくる作品だと思う。

わたしを離さないで

作品について

原題:Never Let Me Go

作者: Kazuo Ishiguro

出版年: 2005年

ジャンル: SF

舞台はとある全寮制の保護施設「ヘールシャム」で、そこで育った少年少女たちが歩む人生や生い立ちにまつわる真実を「介護人」キャシーの回想を通して明らかにしていく。

主な登場人物

キャシー

本作品の主人公。「ヘールシャム」出身で現在は「介護人」を務めている女性。

トミー

キャシーと同じくヘールシャムで育った癇癪持ちの男の子。

ルース

ヘールシャム出身でキャシーの親友。勝ち気で負けず嫌いなところがある。

エミリ先生

ヘールシャムの主任保護官。

ルーシー先生

ヘールシャムの保護官で、劣等生のトミーの個性も尊重し、誰よりも「生徒」に寄り添う。

マダム

時々ヘールシャムに訪れ生徒たちの作品を「展示会」のために選出する謎の女性。

ネタバレ感想

この作品はミステリーではないし、ストーリーを追うことが主目的ではないが、どのような結末を迎えるのだろうか、という点も楽しみの一つなので詳細は割愛する。(これから読む予定のある人はここから先には進まない方がいいかもしれない。)

—–ネタバレを含みます—–

 

 

重い内容にもかかわらず、淡々と静かに物語は進行していく。登場人物の心の機微が丁寧に描かれていて、思春期特有の瑞々しさが爽やかに感じる。「こういう子、同級生にいたな」という少年少女ばかりで、私たちの世界となんら変わらない。しかし彼らの運命は残酷なものだ。彼らはただただ自分の臓器を「提供」するためだけに生きている。そんな運命を受け入れ、反乱が起こることが無いのも違和感や不気味さを強調している。

これは非現実的なSFなのか?

ヘールシャムの生徒たちも、他の施設にいる者たちも、暴動を起こしたりせずただただ運命を受け入れている。それほどまでに洗脳されているのか、ヘールシャムのような施設以外は劣悪すぎるのか。しかし、「本気で愛し合っていることを証明できればそのカップルは提供を猶予される」という噂を多くの生徒たちが信じ、それを実現しようと努力していることから、わずかでも抗いたい気持ちが心の奥底にはあるのではないか。

「臓器提供のためだけのクローン人間を作る」というのは今の社会においては突拍子もない、実現し得ない事のように思えるが(とはいえ技術の発展に法や社会制度の整備が追いつかなくなった時、それは起こり得るとは思うし、対人間でないものについては似たようなことが実際になされている)、極端でインパクトのある設定というだけで似たような状況は現実にもあるのではないだろうか。例えば戦争に駆り出される軍人。いざとなれば命を捧げる覚悟で訓練を行う。「そのためだけに」生まれたわけではないという点ではクローン人間と出生事情は異なるが、「自分を犠牲にしろ」と他者に指示されそれを受け入れるという点では変わらないだろう。命という大袈裟なものでなくとも、格差社会の底辺や貧困国に生まれ、這い上がるチャンスも得られずその環境を受け入れざるを得ない人々もたくさんいる。「世界は常に公平公正というわけではない」「自分が見えている日の当たる場所だけが世界ではない」というメッセージをこの強烈な世界観に反映させているように感じた。

エミリ先生の「運動」は善か偽善か

エミリ先生とマダムは、「提供者」にも魂があり、同じ人間なのだと世間に理解してもらい、人道的な扱いをするよう尽力してきた。その「運動」は、世界を支配し得るほどの能力をクローン人間に与える可能性が違法な研究によって出てきてしまったことで挫かれる。「恐れ」は「嫌悪」につながるという典型的な描写だ。現実社会においての差別問題の根幹はここにあると思う。

試みは頓挫したが、エミリ先生は自分のしてきたことを後悔していないし、正しいと思っている。最終的な運命を変えることはできないが、それまでの間にたくさんの思い出を作り、友情を育み、恋愛も経験し、クローンではない「普通」の人たちとほとんど同じ生活を送ることができたのだから、と。一方で、愛する存在があるからこそ、このような運命がより残酷で受け入れがたいものになり得る、という側面がもう少し描かれても良かったような気はする。「こんな悲しみや苦しみを味わうくらいなら、余計な期待はさせないでくれ」という人がいても不思議ではないが、そう主張する人物は登場しない。それは、「提供」という形であろうと「寿命」という形であろうと人生はいつか終わるもので、最終的に死ぬから無駄だとか、失うのが辛いから最初から要らないというのは違うのではないか、ということなのかもしれない。

エミリ先生は、「臓器提供のためのクローン人間の製造」をやめさせる力が無いのでせめて提供者として生まれた人たちに幸せを感じてほしいと願っていた。ルーシー先生も生徒たちのことを思いやっていたが、エミリ先生とは違い「生徒たちの宿命について隠すことは彼らを騙すことに他ならない」と考えていた。エミリ先生は真実を伝えることが生徒たちのためだとは思わない、と、意見が対立し、最終的にルーシー先生はヘールシャムを去った。どちらが正しいのかはわからない。確かに待ち受ける運命を知っていたら、自暴自棄になる人もいるかもしれないし、真実を伝えることでただ自分の罪悪感を軽くしたいだけだという思いもあるのかもしれない。いずれにしても、「提供者の幸せを願う」というのは提供者側ではない者の傲慢とも取れるかもしれない。この作品の世界において臓器提供用クローン人間の存在は都合の良いものなのだ。本作品におけるクローン人間だけでなく、現実世界でも例えば低賃金で過酷な労働を強いられている人の存在によって安価に物が手に入り、生活が潤う、ということは実際にある。人は誰しも大なり小なり、自分さえ、自分の近しい人さえ助かれば赤の他人の犠牲には目を瞑る。平和な世界に生きているとそのような状況に陥ることは少ない(もしくはただ視界から隠されているだけか、程度がもっと軽い)ため自分の残酷さや身勝手さと向き合うことはあまりない。自己犠牲が美徳とは全く思わないし、これは自然な生存本能ではあると思うが、そのような現実から目を背け「自分は善良なる人間で、他人の犠牲の上になど生きていない」と考える人がいるならば、それこそ自分にとって都合の良い世界しか見ていない「偽善者」なのだろうと思う。

かといって、弱肉強食は当然であり恵まれない人間に手を差し伸べる必要などない、と開き直るような社会が幸せにつながるとも思えない。少なくともエミリ先生とマダムは自分の「善」を信じて行動した。それは、諦め自分の弱さを正当化し世の中を達観したような気になったり、綺麗事を振りかざすだけよりもずっと価値のあるものだと私は思う。

風と共に去りぬ

作品について

原題:Gone with the Wind

作者:Margaret Mitchell

出版年:1936年

ジャンル:時代小説

アメリカのアトランタとその周辺を舞台に、南北戦争時代の南部の人々の生活を描いた物語。題名の風と共に去りぬは、穏やかで美しかったかつての生活が跡形もなく消え去ってしまったということを意味している。

主な登場人物

スカーレット・オハラ

物語の主人公。自信家で勝気な美人。わがままで傲慢だけどなぜか憎めないのは、自分にとても正直で、どんな困難にも挫けず常に前を向いているその明るさのせいかもしれない。

レット・バトラー

自信家。家を追い出された後、ビジネスの才を発揮してかなりの富を築いた。スカーレットとはかなり歳が離れてはいるが彼女を長年想い続けている。皮肉っぽい口調だがいつも核心を突いた発言をする。

アシュレ・ウィルクス

上流階級の坊ちゃんで、スカーレットがずっと思い続けている相手。紳士なようで、現代でいう「ダメ男」という感じ。

メラニー

アシュレの婚約者でスカーレットの最初の夫チャールズの妹。稀にみる聖女であり、どんな時もスカーレットの味方でいることを貫き通す。

人種差別問題

本作品における、黒人差別問題を受けてアメリカの動画配信サービスHBOマックスで映画の配信が停止された。

物語の中で奴隷制度が肯定的に描かれている側面があり、主人公たち白人は奴隷に対して決して暴力は振るわない公平な人物である。しかし実際には、不当な扱いを受けた黒人奴隷は多数存在しており、『それでも夜は明ける』という実話をもとにした映画では悲惨な史実を伝えている。私もこの映画を観たが、辛く悲しいものであった。同じ人間なのに、なぜこのような扱いができるのかと、苦しい気持ちになった。一部の農園では奴隷を大切に扱っていたのかもしれないが、多くの奴隷たちは自由も尊厳もないような状況に置かれていたのではないかと思うし、風と共に去りぬを読んで「奴隷制度は想像ほどひどくなかったのかもしれない」という考えを持つことは危険かもしれない。

また、Ku Klux Klanについても、「そんな暴挙に出ざるを得ないような状況に追い込まれた」というような肯定的な描かれ方をしている。もしかしたらそこには事実や、彼らの言い分があるのかもしれない。そうだとしても、作品内でも「馬鹿げた愚かなことだ」とされているし、人殺しや私刑を肯定できるものではない。

訳者解説で、作者の生い立ちなどに触れているのだが、彼女は生粋の南部人であり、家族や周囲の大人たちから当時の話をよく聞いていたようだ。フィクションではあるが、時代背景や当時の人々の生活、価値観をよく反映しているのではないかと考えられる。南北戦争を舞台にした作品は、奴隷制度の悲惨さやリンカーン大統領の正義などに焦点が当てられることが多いが、南部からの視点で考える機会を与えてくれる作品ではないだろうか。黒人が同じ人間であるように、南部の人たちも私たちと変わらない人間なのである。

ネタバレ感想

—–ネタバレを含みます—–

 

 

 

この作品は高校生の頃に読んだことがあったのだが、ストーリーなどうろ覚えで、もう一度読み返した。私の記憶ではスカーレットはアシュレに振られたはずであったが、最後の最後までメラニーとの三角関係が続いていた。読み進めても、アシュレとスカーレットのキスシーンなどがあっても、切なさが全く伝わって来ず、スカーレットはいつまでアシュレにこだわっているんだ!とジリジリしたが、最後の最後で腑に落ちた。アシュレはスカーレットを愛していなかった。本人に自覚は無かったかもしれないが、典型的な「自分大好きダメ男」という感じだ。メラニーはアシュレを母親のような愛で包んでいたが、アシュレはそのメラニーのことも(精神的な意味で)裏切っていて、メラニーが死ぬ間際になって「メラニーがいないと生きていけない!」などと言い出すし、アシュレは誰のためにも何もしていない役立たずであることが決定的となったと思った。スカーレットもアシュレを理解し心から愛していたわけではなく、ただの執着、幼い恋心だと気づいた。なるほど、だから私にはアシュレとスカーレットが想い合っているという印象が無かったのかと納得した。

一方で、最後にスカーレットは自分が本当に愛し大切にしたい人がレットであることに気付いたものの、すでにレットの愛は冷め、そのことを語るシーンはなんだか切なかった。狂おしいような気持ちはもう無く、淡々と「俺の愛はもう冷めてしまったんだ」と言ったり、死んでしまった愛娘のことを「ボニーは君によく似ていた、だからあれほど甘やかし可愛がることができたんだ」と話し、「もう自分の心を危険に晒したくない」と正直な気持ちを吐露する場面は、レットがどれほどスカーレットを愛していたのかということが伝わってくる。スカーレットは気づくのが遅すぎた。3人の夫は皆、アシュレなんかよりずっとスカーレットを愛してくれていて、恋心に惑わされないために実際主義のスカーレットの冷静さが発揮され彼女にとって有益な相手を選ぶことができたのだろうかと思った。

メラニーの今わの際に立ち会う場面から一気に物語が収束していき、何もかもが「結末はこれしかない」という納得感と共に完結した。とはいえ、スカーレットはその前向きさを失わず、レットのことは諦めない、「明日は明日の日が照るのだ」という言葉で締めくくられている。(恋の盲目には勝てないようだが)スカーレットは強い女性だ。このラストは彼女らしいと思うと共に、喪失感ではなく希望を含んだ終わり方なのが良いと思った。

続編があるようだが、作者も違うしこの秀逸な結末を壊したくないのでおそらく読まないだろう。