作品について
原題:こゝろ
作者:夏目漱石
出版年:1914年
ジャンル: 文学
主人公の「私」が「先生」と出会い、交流を深めていく中で、「先生」の過去、どのように奥さんと出会ったのか、毎月誰の墓参りをしているのか、について知ることになる。
主な登場人物
私
語り手。学生であり、鎌倉の海で「先生」に出会い交流を深めていく。「先生」の秘密を打ち明けられた唯一の人。
先生
妻と2人でひっそりと暮らし、世間と一線を引いている。「私」に宛てた書簡で過去を告白する。
妻
「先生」の妻。軍人であった父親を早くに亡くし、母親と2人で暮らしていた。
K
「先生」の告白の中に出てくる学生時代の友人。
作品の背景と解釈について
有名な文学なので様々な感想・解釈が存在する。
「先生の死は、明治という時代の終わりを象徴している」
「エゴイズムを描いた作品である」
具体的な個人の物語としても読めるが、その背景にはより大きなテーマが存在していると考えられる。明治は西洋化が進んだ時代で、日本古来の「集団」主義から「個人」主義への過渡期であることが、「私」の世代の感覚と「先生」の感覚は違う、それは「時勢の推移から来る人間の相違」であるという表現に反映されている。「個人」を優先することとエゴイズムのつながりについての問いを投げかけられているように思う。
ネタバレ感想
—–ネタバレを含みます—–
「先生」は、達観していて懐の深い、高尚な人間のように映るが、その過去には人間らしい弱さを抱えていた。その弱さや人間らしさは、Kを出し抜いてまで「お嬢さん」を手に入れたという行動において強調されているように見えるが、むしろその「自白」そのものに表れているように思う。「私」が知りたいと迫ったから、という大義名分によって懺悔をし、自死した。その中で「自分の妻(お嬢さん)への愛は純粋なものであった」ということを一生懸命伝えている。Kに対する罪悪感によって、「この愛が本物でなければほんのわずかな自尊心さえも否定されてしまう」とでも言っているようだ。「先生」は、自分が、軽蔑した叔父さんと同じ人間であることに失望し、他人にも自分にも愛想が尽きたと言っているが、それさえも、最後に残った自分の精神を保つためではないかと思う。自分は道徳から外れたことをしたと認めている、認めているからまだマシだと。そのような「先生」の人間臭さが、手記全体に滲み出ている。
Kの自殺と先生の自死
Kはなぜ自殺したのか。「先生」は、孤独のためで、自分もまたその道を辿っていると言っているが、真相は誰にもわからない。「先生」とKは似ているようで全く違うタイプだ。「先生」自身、Kには敵わないと白旗を上げている。だからこそ、真っ向から勝負することができずにあのような行動をとったのだろう。Kは、裏切られたからとか、道を極めようとするのに恋にうつつをぬかしてしまったことを「先生」に指摘されたから、絶望して自殺したのだろうか。そうではなくて、恋のために心をかき乱された結果、「先生」を憎みそうになる自分を恐れたのではないか、とみることもできる。Kは養家や実家の彼に対する扱いに恨みがあったようには見えない。ひたすらに、自分の信じる「道」を極めたいという一心だった。全てはその手段だったのだ。そこに「愛憎」などという最も俗っぽいものが自分を支配し始めたことに堪えられなかったのかもしれない。一方で、「先生」は叔父に対する憎しみを自覚し、お嬢さんに対する恋愛感情も、Kに対する嫉妬も、そのまま受け入れていた。そしてある種の「報い」として死を選んだ。2人とも、自分の「倫理」を失いたくないという思いが根底にあったことは共通しているが、自殺に至るまでの心のあり方は異なっていたのではないかと思う。
個人主義とエゴイズム
誰しも恋愛感情によって利己的に振る舞うことがあるだろう。そこに自分を投影する人もいると思う。「先生」は卑怯だ、という感想もあるだろうしそれが人間だよねと思う人もいるだろう。それでも「先生」は善良な人間で、罪に苛まれる良心や、秘密を抱えたまま死ぬことで愛する妻を守ろうとする誠実さを持ち合わせていると考えることもできる。そしてそれは真実にも思える。しかし、「エゴ」とは選択ではなく、自分の「正義」「信念」「道徳」にすがりつきたいという心なのかもしれない。そういう意味では「先生」もKも利己的な人間である。「私」や現代の私たちにとっては、恋愛でも仕事でも、自分の利益のために競争相手を打ち負かすことが自殺しなければならないほどの罪悪なのか?と疑問である。個人主義によるエゴイズムは自身の実益ではなく各々の価値判断基準に固執してしまうところにあるのではないだろうか。